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エッセイ

2016年夏期学校・午後のコンサートに出演させていただいて
〜ピアノ科OG 相澤美智子さん

ピアノ科OGの相澤美智子さん 季刊誌No.184の「先輩こんにちは」に登場された、ピアノ科OGの相澤美智子さんから届くレポート第4弾は、2016年の夏期学校の「午後のコンサート」に親子で出演された時の様子を克明にレポートしてくださいました。お楽しみください。
 相澤美智子さんは、現在、一橋大学大学院法学研究科准教授としてご活躍で、2012年3月に出版された著書「雇用差別への法的挑戦ーアメリカの経験、日本への示唆ー」(創文社)が、ジェンダー法学会の出している「西尾学術奨励賞」の受賞作に選ばれました。また、「Duo如水」の名前で、ヴァイオリン奏者でもある大先輩との演奏活動など、公私にわたって充実した生活を過ごされています。それでは、相澤さんのレポート第4弾が始まります。

はじめに



 201682日(火)から5日(金)まで、松本で行なわれた夏期学校に参加した。夏期学校参加は3年連続で3回目。我が家にとっては年中行事になっている。振り返れば、娘・真希子が才能教育研究会に入会したのが20117月。その年は、すでに夏期学校の受付が終わっていたので参加できず、次の2年は、夏期学校が開催されなかったので参加できなかった。というわけで、我が家は参加可能になった2014年の夏期学校以降はすべて、しかも家族全員(夫と私と娘の3人)で参加している。

 我が家では、夏期学校のことを「巡礼」と言うことがある。才能教育は、鈴木先生の教えを信仰する宗教のように思えることがあるからである。その発祥の地である松本に出かけることを、ムスリムがメッカを訪れるのと同じように、「巡礼」と表現しても、あながち的外れではなかろう。夫と私は毎年、松本に向かう車中で、「今年も巡礼に来られたね」と微笑む。

 そんな我が家にとって、今年の夏期学校は特別に思い出深いものになった。それは、娘をご指導くださっている古谷達子先生が初日から松本にいらしてくださったからである。才能教育研究会ヴァイオリン科指導者の古谷達子先生は、御年87歳。ご高齢ゆえ、ここしばらく、夏期学校のために松本にいらっしゃることはなかった。しかし、今年は、先生がいらしてくださった。それは、娘・真希子が「午後のコンサート」で演奏させていただけることになったからである。真希子のコンサート出演は、さらに、大きな出来事をもたらした。真希子のピアノ伴奏を私がすることになり、それゆえに、私の恩師である才能教育研究会ピアノ科指導者である細田和枝先生が松本まで私ども親子の演奏を聴きに来てくださり、古谷達子先生と細田和枝先生の直接対面が実現したことである!

 以下、1では娘・真希子の「午後のコンサート」出演が決まるまでの経緯、2では「午後のコンサート」について述べつつ、偉大な師――古谷達子先生と細田和枝先生――との出会いが、私ども家族に、いかに大きな喜びと感動と充実感をもたらしてくれているかということについて語りたいと思う。

卒業証書真希子の午後のコンサート出演が決まるまで
11年前の約束を覚えていてくださった達子先生

 
 2015年の夏期学校から東京に戻り、レッスン時に古谷達子先生(以下、達子先生)に夏期学校の思い出をご報告していたときのことである。先生が娘に意外なことをおっしゃった。「真希ちゃん、1年間一生懸命お稽古したら、先生、来年は、真希ちゃんが夏期学校の午後のコンサートに出られるようにしてあげる」。真希子は、えぇぇ!!!と大きな目をいっそう大きく見開いて驚いた表情をした。でも、イヤそうな顔ではなかった。むしろワクワクしているようだった。

 それから後、達子先生が夏期学校の「午後のコンサート」のことを話題にされることはなかった。それゆえ、20164月、達子先生が「真希ちゃん、夏期学校のコンサートに出たい?」と約8ヵ月振りにコンサートのことを話題にされたときには、私は内心、「達子先生、あの約束を覚えていてくださったんだ…」とハッとした。失礼な言い方かもしれないが、先生のご年齢を考えれば、約8ヵ月も前にした約束を忘れてしまわれたとしても、何ら不思議ではない。でも、先生は覚えていてくださった。先生は、それほど真希子のことを思い、彼女の8ヵ月間の努力を認めていてくださったのだろう。

 「曲は、(バッハのコンチェルト)a-moll3楽章がいいですね」と達子先生。a-mollは高等科の課題曲で、録音に向けて、どのみちたくさん練習しなければならない曲なので、コンサートを機会に集中的に練習するのは好都合と思えた。「425日の朝9時からファックスで申込開始なので、ファックスしておきます」。先生がそうおっしゃり、私たちは真希子とともに一層お稽古に励まなくては、と固く心に誓った。

2)私が伴奏をすることに!

 
 帰宅して、才能教育通信に発表されていた今年の夏期学校の企画について読んでいたら、「午後のコンサート」の申込についての記述があった。気になったのは、出演申込をする際に、伴奏者をどうするか意向表明をしなければならないことだった。本部に伴奏者の手配をお願いするならば、そのように伝えればよいが、自分で伴奏者を手配するならば、伴奏者の名前を申込用紙に記入しなければならない。私は夫に言った。「a-mollの伴奏ならば、私できるけど・・・」。そんなことは、私が言わずとも彼は分かっていた。私はいつもDuoを組んでいてる合奏パートナーと、かつてコンサートでa-moll全楽章を演奏した。a-mollは、私自身もコンサートに向けて、かなり追究し、弾き込んだ曲である。

 その夜、夫が達子先生に電話をした。真希子の伴奏者をどうするか、ご相談するためである。夫に、私が伴奏をすることもできるが、どうするか、先生に尋ねてもらった。夫が相手の方が、達子先生も率直なご意見をおっしゃることができるだろう、と考えてのことだ。先生は、「お母さまが是非とも伴奏をしたい、ということならば別ですけれど、そうでないならば、本部にお願いしましょう。お母さまが伴奏だと、真希ちゃんに甘えが出るかもしれませんから。他人の方がピリッとしていいでしょう」とおっしゃった。私たちは先生のおっしゃるようにしようと思っていたので、この電話で、伴奏者は本部にお願いしようという気持ちになった。

 ところが、翌週、レッスンにうかがうと、達子先生がニヤッとされながらおっしゃった。「真希ちゃんの申込用紙は、もう書きました。伴奏者の欄には、相澤美智子と書きました」と。「えぇぇ!」私の方がびっくりである。夫も横で驚いている。すると先生は、「いづみに話したんです。そうしたら、いづみが『めったにないことなんだから、お母さんが伴奏して、いい思い出を作るといいんじゃない?』って言ったので、そうすることにしました」とおっしゃった。「いづみ」とは、達子先生のお嬢さんで、才能教育研究会ヴァイオリン科指導者の古谷いづみ先生である。先生方がそのように決めてくださったのならば、私に反対する理由はない。伴奏者は私と決まった。

3)出演決定

 
 ファックス申込受付の425日まで、達子先生はお会いするたびに「25日、朝9時ですね」と私たちにおっしゃっていた。クラスのグループ・レッスン(合奏)のときには、他のお母様方に、まだ正式に決定していたわけではないのに、「真希ちゃん、夏期学校の午後のコンサートで弾くんですよ。お母さまの伴奏でね」ともおっしゃっていた。そうおっしゃる先生の表情は、何だか嬉しそうだった。久し振りのことで、心が浮き立っていらっしゃったのかもしれないと思った。達子先生は、過去には毎年、夏期学校の「午後のコンサート」にご自分の生徒さんを出演させていたとうかがっている。もしかしたら、真希子を通して、昔の懐かしい思い出を思い出されていたのかもしれない。

 私は仮に真希子の出演が決定したときに、達子先生が松本にいらっしゃるのだろうかと考えてしまった。先生はここ数年、松本にいらっしゃっていなかったからである。夏の松本の暑さと先生のご年齢を考えれば、当然と思えたが、私は思い切って先生にお尋ねした。「先生、先生は今年の夏期学校にはいらっしゃるんですか」。すると達子先生は、「それは、真希ちゃん次第です」とおっしゃった。真希子の出演が決まれば、松本にお出かけになるという意味だ。先生にとって、それは体力的には楽でないはずだった。しかし、先生は真希子のために松本に出かけてもよいとおっしゃってくださった。私には先生のそのお気持ちがありがたく思え、たとえ真希子の出演が決まらなくても、このことを絶対に忘れないと思った。

 425日、真希子の出演申込が無事、松本の本部に受理された。後からうかがったところ、達子先生はその日、朝7時半からファックスの前で待機していらしたそうである。達子先生のエネルギーはすごかった。

 真希子と私の出演が決まって喜んでくださった方は、他にもいらした。それは、私の恩師である才能教育研究会ピアノ科指導者の細田和枝先生である。私は先生にお電話して、このニュースをお伝えした。先生は私が伴奏者になったことにご満足だった。私は先生に、できれば(松本での)本番の演奏を聴いていただきたいとお願いした。先生は、体調が許せば是非そうしたいとおっしゃってくださった。その後、真希子の本番の会場が才能教育会館ホールに決まったときには、私はそれを細田先生にメールでお伝えした。そのメールに対し、細先生は次のように返信してくださった。「才能教育会館ホールでの親娘共演のお知らせを有難うございました。ピアノ科午後のコンサートで演奏した貴女の姿を懐かしく思い出しながら、この度のビッグニュースには、ただただ古谷達子先生への感謝の気持ちいっぱいです。勿論、ご主人さまと貴女、そして真希子ちゃんの努力の結果でもありますね。本当にお目出とうございました」。先生は、33年前と32年前、2年連続して才能教育会館ホールで演奏をした私のことを思い出してくださっていた。私は、いくつになっても、細田先生の「美智子ちゃん」である。

 細田先生から再びメールをいただいたのは、本番も迫った81日だった。メールには、「体調が良いので、今日、松本行きの切符を買ってきました」と書かれていた。先生が来てくださる!!私にとって、これ以上嬉しいことはなかった。

午後のコンサート
1)朝



 コンサート当日の84日(木)の朝、夏期学校時の定宿にしている山梨県の夫の両親の家から松本に向かう車中で、夫が言った。「みっちゃん(私)にスズキ・メソードを教えてもらってから、ここまで来たかぁという気分だよ」

夏期学校のグループレッスンでの様子 私は、夫が遥か昔のことにまで思いを馳せていたことに驚いた。夫がスズキ・メソードに出会ったのは、私と出会った頃である。彼は、私に、結婚前から「スズキ・メソードとはいかなるものか」ということを聞かされ、真希子が生まれるずっと前から、武道館での全国大会(グランドコンサート)に連れて行かれた。私たちはなかなか子どもに恵まれず、結婚13年目に、ようやくにして真希子が誕生した。彼女が2歳になった結婚15年目に、我が家でもヴァイオリンの鳴る日々が訪れた。それから5年。最初の1年半は、真希子が余りにお稽古に乗ってこないので、私は、「本人にやる気が出るまで、レッスンをお休みさせよう」と夫に持ちかけたこともある。当時、私は、子どもの頃の自分と真希子との間のギャップに苦しんでいたのだ。私は、ピアノを習った子ども時代、最初の2年半はバイエルから始まる従来のピアノ教育を受けたが、その退屈さに我慢ができず、毎日10分しかお稽古しない子だった。しかし、スズキ・メソードに変わってからは違った。ピアノが好きで、練習も苦痛でなくなり、毎日2時間、休みの日はそれ以上ということが、それほど苦労なくできるようになった。それに比べて、真希子はどうだ! 5分で集中力散漫になるではないか! 私は真希子のヴァイオリンに対して匙を投げかけた。

 しかし、夫は私に猛反論した。「そうやって、休ませようとか、そんなことを呑気に言えるのは、自分が、ある程度楽器が弾けるからだよ。みっちゃんには、ピアノという『自分の楽器』がある。俺には、それがない。その苦しみが分かるか!表現したいことが山のようにあるのに、それを表現できる『自分の楽器』のないんだよ! 休ませようなんて、そんな呑気なセリフ、楽器ができる人の言う、贅沢なセリフだ! 親が投げ出したら、それでおしまいなんだよ! 俺は、そうやって育てられたから、こうして苦しんでるんだよ! マキのヴァイオリン、俺は絶対に諦めないからね!」。彼はそう言って、乗ってこない娘を相手に一時期、一人でがんばっていた。

 夫には、「自分は、自分の親のようにだけはなるまい」という強烈な思いがあった。彼は子ども時代にピアノを習っていた(習わされていた)時期があったが、練習嫌いで、レッスンのときの態度も悪く、それを見かねた母親が、さっさと見切りをつけて、ピアノを辞めさせた。しかし、彼は、青年になってから本当に音楽に目覚め、学校で吹奏楽やオーケストラを経験し、私と結婚してからはチェロを学び始めた。しかし、悲しいかな、子どもの頃から研鑽を積み、ある程度自在に弾ける「自分の楽器」がないのは、一朝一夕に解決できる問題ではなかった。

 「子どもが乗ってこなくても、ある程度までは親ががんばらなくてどうする!」というのが夫のスタンスだった。真希子がレッスンを始めてからの最初の1年半、彼が踏ん張ったから、今の真希子がある。その夫のがんばりを誰よりも評価していたのは、細田先生だった。「美智子ちゃん、あなた、今は(真希子ちゃんのヴァイオリンを)がんばっているかもしれないけれど、哲哉くん(夫)には頭が上がらないでしょ!」さすがは恩師、押さえるべきことは押さえて、ビシッとおっしゃる。夫が私に「休ませようなんて、そんな呑気なセリフ、楽器ができる人の言う、贅沢なセリフだ!」と猛反論したことについて細田先生に話したときにも、先生は夫に感服しつつ、「そうよ、哲哉くんの言う通りだわ!」とおっしゃった。夫は共感者を得られて救われたようで、「僕のこと、こんなに褒めてくれるのは、細田先生だけです」とありがたそうに言っていた。

 「午後のコンサート」の朝、夫の頭の中に去来したのは、以上のような一連の出来事だったのだろうと思う。考えてみれば、真希子は今回の出演まで、ソロ演奏といえば、古谷クラスの発表会と、今回の「午後コンサート」の直前に出演した小さな小さなコンクールでの経験だけだった。大勢の聴衆の前で演奏した経験としては、スズキ・メソードのイベントがあり、これには何度か出演させていただいてきたが、それらはすべて合奏だった。今回の演奏は、大勢の知らない方々の前でソロで演奏するという意味で、真希子にとっては初めてのことであり、我が家にとっては大イベントだったのである。

(2)本番前



 午後1時から、スズキ・メソード研究所のスミスホールで、本番前のリハーサルがあった。リハーサルには達子先生だけでなく、いづみ先生もお越しくださり、お二人で真希子を支えてくださった。ピアニストの私の本音を言えば、本番前のリハーサルくらいは、本番のピアノでしたいと思った。楽器は一台一台異なるので、その癖を知っておきたいし、できれば音響を考慮しつつ、ピアノの蓋をどのくらい開けるのか、あるいは完全に閉めるかも考えたかった。ピアニストは、いつもそれで苦労するのだから。

 リハーサル終了後、真希子を着替えさせ、髪の毛を整えてやった。才能教育会館1階には出演者控室があり、ほとんどの出演者が最後の最後までさらっていたが、真希子はもう練習は十分したと思ったのか、調弦だけ済ませたら、さっさと練習をやめてしまった。

 午後3時半開演で3番目の出演だったので、開演と同時に楽屋に入った。懐かしい楽屋だ。私も、約30年前に2年連続で、夏期学校のときにここで演奏させていただいた。才能教育会館ホールの楽屋は、いわゆる下手側にある点で、多くのホールと異なっている。そのことも記憶に残っていた。

 真希子と夫、そして達子先生と4人で待機していると、急に夫の声がした。「みっちゃん、細田先生・・・」。私が驚いて立ち上がり、狭い楽屋の中を先生の方へ進むと、先生は、「美智子ちゃん、私、この後、すぐに帰らなければならないから、楽屋に来ちゃった」とおっしゃり、お隣に達子先生がいらっしゃることが分かると、いきなり自己紹介を始められた。「先生、私、相澤美智子の・・・」。私がそこに入り、「達子先生、私の恩師の細田和枝先生です」と後を続けた。達子先生が「こんにちは」とおっしゃるかおっしゃらないかのうちに、細田先生の口からは次の言葉が出ていた。「先生、このたびの(コンサートの)こと、本当にありがとうございます。この家族にとって、先生との出会いがあったことは、本当に大きなお恵みで、私も感謝しておりました。私もまた、先生からたくさんのことを学ばせていただきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします」。

 私は達子先生に向けられた恩師の言葉に感動した。ご自分に厳しく、鈴木先生の目指した「落ちこぼれを作らない教育」を実践してきたという自負をもって、何十年と指導者として歩んでこられた細田先生が、この人には尊敬の念を表さずにはいられないと、達子先生に「私も先生からたくさんのことを学ばせていただきたいので、よろしくお願いいたします」とご挨拶なさったのである。そのうえ、まるで私の親であるかのように、私の家族にとって達子先生との出会いがあったことは誠に幸いなことであったと、お礼を述べてくださったのである。先生は私がいくつになっても、先生の下を離れても、私と私の家族の幸せを願っていてくださる。私は、いつまでも先生の「美智子ちゃん」であるということを実感して、涙がこぼれそうだった。

(3)真希子との共演



懐かしい才能教育会館のステージで親子共演。でもあっという間の4分間だった 細田先生が楽屋を出られ、もうすぐ本番というとき、真希子が普段とは様子が違うことに気づいて、どうしたのか尋ねた。彼女は不安そうに、「間違えちゃいそう」と言った。ここまで来たら、もうどうにもならない。私は毅然として言った。「間違えたっていいのよ。でも、心を込めて弾くんだよ。バッハに、真希ちゃんの弾く曲を作ってくれて、ありがとう、達子先生に、ご指導ありがとう、って思って弾くんだよ。そうしたら、間違えたっていい。分かった?」私の言葉を、真希子は黙って聞いていた。真希子にそう言ったのは、私が、子どもの頃からそうしてきたからである。私が鈴木先生の『愛に生きる』を初めて読んだのは、小学校4年生のときである。そこには、鈴木先生が、ショーソンのポエムの演奏を目前に控えられて「不安です」とこぼされた志田とみ子さんに、「間違えったって、弾きなおしたって構わない。ショーソンの魂に向かって弾きなさい」と諭されたことが記されている。子どもなりにそれを理解した私は、以来、舞台で演奏するときには、必ず演奏する曲の作曲家に、この曲を作ってくれてありがとう、と心の中でお礼を言うようにしてきた。ときには、お礼を言うだけでなく、その作曲家がどんな思いでその曲を書いたのか想像したり、また、その作曲家の生きた場所を旅行したことがあるときなどは、その地を思い起こして、その作曲家はどんな人生を過ごしたのだろうと考えたりしながら弾くようになった。

 いよいよ本番!真希子とともに舞台に出る。32年振りの才能教育会館ホールだ! しかし、感慨にふけっている暇はなかった。ひとたび演奏を始めた真希子は、普段のお稽古のときとは違う、かなり速いテンポで弾き始めた。普段、家では、若干ゆっくり目のテンポで、丁寧に弾く練習をさせていた。本番で、それよりも速くなるのは分かるが、しかし、このときのテンポは私の想定外だった。私は内心焦った。こんなテンポで始めて、16分音符の連続する箇所を転ばずに、クリアに弾けるだろうか。途中でミスをして、自己崩壊してしまわないだろうか。私は自分に言い聞かせた。絶対に冷静に。ピアノは、ヴァイオリンにピッタリつけつつも、そのテンポに若干の抑制をかけるように弾くように。間違っても、こちらが煽って、加速させてしまうことがないように。あのときの私の状況は、たとえるならば、突然に走り出した駄馬を、何とか制御しながら走り続けていたら、アッという間にゴールに連れて行かれてしまった、という感じだった。

 本当に、アッという間の4分間だった。私は途中で総崩れにならないかと心配で、このときばかりは、バッハにお礼の気持ちをほとんど伝えられなかった。細田先生によく言われていた和声進行を意識した演奏も、上拍・下拍を意識した演奏も、どこまでできていたか不安である。絶対に加速しないようにと気遣う余り、タッチミスをしてしまい、忸怩たる思いであった。

娘が乗ってきているのがわかった しかし、真希子は私の心配をよそに、演奏が進むにつれてどんどん気持ちが乗り、楽器もよく鳴るようになって、最後まで無事に弾き切った。終わって拍手をいただくと、安心した様子だった。舞台袖まで戻ると、進行係に、カーテンコールに応えて、もう一度ご挨拶に行くようにと促されていた。舞台慣れしていない彼女は、遠慮がちに舞台中央まで出て、恐縮した感じでお辞儀をして戻ってきた。

 2度目のお辞儀を終えて楽屋に入った真希子は、早速にパパに、「がんばったよね?」と確認していた。それは、がんばったら、ご褒美に欲しかったおもちゃを買ってあげる、とパパが約束していたからである。緊張が解けた本人は、ケロッとして、「CDのテンポで弾いたんだよ!」と言う。確かに、真希子の設定したテンポは、ありえないテンポではなかった。a-mollは、これまでに何度もいろいろなCDや生演奏を聴いてきたが、真希子のこのときのテンポよりも速いものだってある。しかし、私は普段とのギャップに戸惑い、大丈夫かとハラハラし、心底疲れた。自分が2時間のリサイタルをしたときよりも、このときの4分間の方が疲れた。親たるもの、子どものことになると自分のこと以上に大変。そう人から聞かされたことがあったが、それをまさに実感した出来事であった。

(4)終演後



 終演後、楽屋を出ると、細田先生がいらしてくださった。先生は感激のご様子で、「美智子ちゃん、良かったわね」とおっしゃりながら、私を抱きしめてくださった。私は、「あんなに速いテンポになるなんて予想外で・・・」と自分の思いを口にしたが、先生の思いはそんな小さなことにはなかったようであった。先生は、この瞬間をいつまでも心に留めておきたいと思われたのだろう、横にいた夫に、「ねっ、写真を撮ってくれない?」とお願いをしてきた。その言葉を聞いて、私は瞬時に言った。「だったら、鈴木先生の像の前に行きましょう!」鈴木先生の像とは、才能教育会館の前にある、鈴木鎮一先生と子どもの像である。子どもの頃、夏期学校に参加したときに、私はよく鈴木先生とこの像の辺りですれ違い、そのたびに、「(練習は少なくとも)2時間ですよ」と言われながら握手をしていただいた。そのことが記憶に残っているからだろうか、写真と聞いて、その像のことをパッと思い出した。

 夫が控室にカメラを取りに行っている間、細田先生が再び達子先生に話かけられた。「先生、このたびのこと、本当にありがとうございます。先生の良きご指導があって、真希子ちゃんがあんなに立派に育って。私もこうして先生にお目にかかれて、本当に嬉しいです」と。達子先生は、「良い先生かどうかは分かりませんが・・・」と謙遜されると、「お父様とお母様が熱心にがんばっていらっしゃいますので」と、私たち夫婦のことを褒めてくださった。次いで私が言葉を挟んで、達子先生に申し上げた。「先生、真希子にヴァイオリンを始めさせようと思ったとき、私は細田先生に、どなたか良い先生をご存知でないか、ご相談したんですよ。そうしたら、先生は、『ごめんなさい。私、東京のヴァイオリンの先生までは分からないわ。でも、あなたたちには絶対に良い出会いが準備されているはずだから。また、そうなるように、私もお祈りしているから』とおっしゃったんです。それで、私は夫と2人で手探りで先生探しをして、その結果、先生をお訪ねしたんです。それから今日までのことを、私は折々に細田先生にご報告してきたのですけれど、あるとき先生は、私たちに達子先生との出会いがあったことを心から良かったと喜んでくださって、『ねっ、ちゃんと良い出会いが準備されていたでしょ。私のお祈り、通じたでしょ』とおっしゃったことがあって」。達子先生は、穏やかに微笑んでいらした。私は、2人の偉大な師が、同志として、無言のうちに、互いの指導者としての努力を称え合っている姿に接して、胸が一杯になった。なぜならば、私は細田先生に、いつか絶対に達子先生に会っていただきたいと思っていたし、また達子先生にも、同じように、細田先生に会っていただきたいと思っていたからである。

左から古谷達子先生、真希子、私、細田和枝先生 夫がカメラを持って現れ、全員で鈴木先生像の前に移動した。鈴木先生を前に、真希子と私が達子先生と細田先生に挟まれて立ち、夫がシャッターを切ってくれて、生涯の思い出になる写真ができた。写真を見返すたびに、私は素晴らしい師との出会いに感謝している。親子2代で、鈴木先生の理念を実践することに命をかけ、子どもを愛情深く、忍耐強く教え導いてきた最良の恩師に出会うことができたとは、何という幸運であろうか。私は、スズキ・メソードでピアノを勉強したことによって、何ごとも諦めず、数限りなく繰り返すことによって、一定程度(以上)の能力が育つ、という人生の支えとなる教えを、身をもって知り、加えて音楽という一生の楽しみを得た。ピアノがなければ、今の私はない。私の人生の土台を築いてくださった細田先生は、音楽の師を越えて、人生の師である。そして、今まさに娘にそのような大切なものを授けてくださっている達子先生もまた、人生の師である。お二人の先生が、いつまでもお元気でいてくださることをお祈りしたい。

(5)3つのエピソード



 【その1】真希子の演奏が無事に終わり、安堵された達子先生は、「午後のコンサート」の後、お泊りのホテルに戻られた。夫が車で達子先生をホテルにお送りした。その車中でのこと。以下は、夫から伝え聞いた話である。達子先生が夫に話しかけた。「細田先生が、あの(4分間の)演奏だけのために松本までお越しにになったとは、美智子さんはきっと、細田先生にとって特別の生徒さんだったのでしょうね」。夫が、「そうだと思います。美智子は細田先生と相性が良く、先生にやる気を引き出してもらって、ピアノを相当がんばったようです。先生も、練習が好きな子は100人に1人くらいなんだけれど、美智子ちゃんはまさにその100人に1人、とおっしゃっていたそうです」と返答した。達子先生は、夫の言葉を「そうですか」と聞いていらした。そして最後に、おっしゃった。「じゃぁ、真希ちゃんはお父様に似たんですね(笑)」。達子先生のユーモアのセンスと愛情が胸に染み入るひと言だった。

 【その2】真希子の演奏の翌日、達子先生にお会いしたら、先生が笑顔でおっしゃった。「昨日はホテルに帰って、ひと休みした後、いづみが帰ってこないので、一人で夕食をいただくことにしました。ホテルの中華料理のレストランに入ってね、真希ちゃんが立派に演奏したので、まずはビールを注文して、それをいただき、続いてお料理を2品ほどいただいたんですけれど、真希ちゃんががんばったので、その後、もう1杯ビールをいただきました」。私は真希子と、「ご高齢の達子先生が松本まで来てくださるのだから、絶対に先生をがっかりさせるような演奏はしない」という目標を掲げていたので、達子先生がお喜びであった様子がよく分かり、安堵した。

 【その3】私は、細田先生が本当のところ私と真希子の共演をどうお感じになったのか、また私のピアノについてどう思われたのかお聞きしたいと思っていた。松本から帰り、鈴木先生像の前で撮影した写真をお送りした際に、「忌憚のないご意見をお聞かせください」と先生にお願いした。すると翌日、先生からお電話があった。先生はいつもの明るい声で「美智子ちゃん、お返事のメールを書こうと思ったら、思いが溢れて、うまくまとまらないので、電話することにしたわ」と。先生はまず「とにかく、楽しかった」とおっしゃった。「3拍子のリズムで、音楽が躍っているんだもの。それに、7歳で、あんなに難しい曲をよく弾いて。あなたと哲哉くんが育てると、こんなふうに育つのね、って嬉しくてね」

 先生からピアノの話が一向に出てこないので、私は「ピアノはどうでした?」と尋ねてみた。すると、先生は苦笑されながらおっしゃった。「ピアノね、それが申し訳ないことに、ピアノをちゃんと聴かなくちゃ、と思っていたのに、私、耳が真希子ちゃんの方ばかりにいってしまって。真希子ちゃんの演奏と小さい体で一生懸命弾いている姿に引き込まれて、ピアノあまり聴いていなかったのよ」。先生は私の演奏を批判的に聴いていてくださると期待していたのに、そんなことになっていたとは(笑)。でも、それだけ真希子の演奏に引きつけるものがあったのだとしたら、それは嬉しいことである。しかも、先生はヴァイオリンに対して、いわゆる素人とは違う。先生のお嬢さんはヴァイオリンで音大まで進まれた方だから、先生は音楽全般についてはもとより、ヴァイオリンのことについても、かなりご存知で、先生のヴァイオリン評は信頼に値する。先生は次いでおっしゃった。「ピアノは、そういうわけでほとんど印象に残っていないのだけれど、もしもあなたの音が真希子ちゃんのヴァイオリンを邪魔していたら、それは耳障りで気になったでしょうから、それがなかったということは、伴奏として良かったということよ。ああいう曲は、ピアノの音が大きくて邪魔をするのが一番よくないからね」。そうか、伴奏としては良かったんだ。私は安心した。先生は、「忌憚のない意見を聞かせてください、ということだったけれど、親子共演、本当に楽しかったわ。それが私の意見よ。古谷先生に感謝しているわ。もちろん、古谷先生があのような機会を与えてくださったのも、あなたと哲哉くんのがんばりがあったからでしょうけれど。これからも、がんばってね」。恩師の実に爽やかな声を聴いて、私の気持ちは軽くなった。私は、音楽に関することになると、いくつになっても、細田先生に褒めていただくのが一番嬉しいのだ。先生の言葉に接して、私もようやくにして、今回の我が家にとっての大イベントを、「良かった」という言葉で締めくくることができた。


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